ポタクのあれこれ。

僕の脳内の話。

「人生が1本の映画だとして、皆だったらどういう映画にしたいですか。」 — 椎木知仁の言葉。

こんにちは。

今日は久しぶりに曲考察のブログを書こうと思います。

今回取り上げるのは、My Hair is Badの『芝居』という曲です。

https://youtu.be/N0Tztbh90Ug

 

 

人生を映画と表現しつつ、椎木知仁さんの人生観が多々散りばめられている曲ではないかと思います。

では行きましょう!

 

 

"もしもこれが映画だとして今日はどんなシーンだろう

 ひとつも解決していないから 終わりはまだ先だろう"

 

今日という日は何も出来なかったそんな日、そんなシーンだった。

だからこそ、終わる訳はないのだ。

幕引きには、それに相応しい何かが必要だから。

 

 

"肝心な台詞を間違えて また人を傷つけたり

誰かの演技を真似てみて より自分が分かったり"

 

言葉の使い方を間違えて誰かを傷つけたり、誰かがやっている事を真似たりしてみて、善し悪しを知ったり、自らの向き不向きを理解して、人は成長していく。

そんな事を表しているのではないかと思います。

 

 

"急な即興で笑ってしまったり あの名優がこの世を去ったり

一秒一秒全てのシーンがもう 撮り直せない"

 

友人とバカ騒ぎして笑いあったあの日。

自分のお手本であった両親だって、この世を去る時が来る。

時間は有限で、巻き戻せないからこそ「一秒一秒」を大切にする必要があるのです。

 

 

"幸せは思い出として古びていく

読み終えた台本や 着崩れした衣装たちが重なってる

このまま 出番は続いていく

残った傷も汚れも恥じたりしないでいい

美談だけじゃきっと映画を愛せないから"

 

嬉しかったこととか、喜びあったこととかは、心の中や写真、自らが着た服などに収められ、時は流れていく。

生きてく中で、自分の過ちや悲しかったことを忘れる必要なんて無いんだ。

美しい思い出だけじゃ、映画=僕を愛せないから。

 

 

"悲しい台詞が増えたのは 嬉しい場面の前振りだろう

厳しい言葉が悔しいのは 本気になった証拠だろう"

 

山あり谷あり。

そのことわざになぞらえるように、悲しみの後には喜びがあるということ。

何かに手を伸ばして努力している時、心はありのままの言葉を、ありのまま受け取る事が出来るのです。

 

 

"台本のどこを探してもない

君の名前はもう書いてない

いくら拒んで逆らっても

次へページをめくらなきゃいけないから

何度も手に取る写真の君は

時間が経つたびにまた綺麗になった"

 

君の名前をいくら探しても書いてない。

それでも「僕」という物語は止まることを知らない。

それでも少し立ち止まりたくなって、見返した君の写真は、時間が経つ度、自分の愚かさに気付く度、後悔する度、反比例するように綺麗になって見えるのです。

 

 

"たまには 今までを再生してみる

砂嵐で歪んだり何も映らなかったり

きっとそれでいい"

 

「自分」も成長していく中で、何かを忘れていったり、忘れたくなったりする。

それなら、それでいいじゃないか。

成り行きに任せて漂うように。水の流れに乗るように。

 

 

"このまま僕は僕で古びていく

若い頃の台詞を指でなぞっては

恥ずかしくなったりする

積み上げた作品が崩れること

人はそれを走馬灯と呼ぶらしいけど

今の僕が予告編になるような

長い映画を撮ることに決めたんだ"

 

大人になって、若い頃の少しカッコつけた、青臭い言葉を思い出して恥ずかしく思ったりもする。

そんな風に生きて歩んできた軌跡=作品が崩れて自らに降り掛かってくること。

それを人々は走馬灯と呼ぶらしい。

でも、今までの「僕」が2分半ぐらいに纏まってしまうぐらい、これからの「僕」の映画を大きい物に、価値ある物にしていくと決心する。

幕引きの際に、人生最高の一本の映画を見るために。

 

 

いかがだったでしょうか。

ふと、何故曲名が「芝居」なのかと考えてみて、1つの答えを出せた気がします。

お芝居は、台本の存在があって成り立つものです。つまり、流れに沿う必要がある。

生きていくことも同じで、何でも自由に出来る訳でもない。何かに縛られたり、決まりに従った上で、次のページをめくらなければならない。

こんな風に似通っている要素があるからこその曲名なのかなぁと思いました。

 

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またブログ書きます。

読んでいただきありがとうございました。

では!